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足に至ったのは、県の方針が強く働いた結果であった。こうして内部的には、1995年の夏頃までに推進体制が出来上がった。また、住民にたいして各自治体では、朝地町で住民への説明や意見交換がおこなわれた以外に、公的な場での説明はなかったようである。 (d)県からみた連合の課題:中間的展望と県の支援 県の側からすれば、広域連合の制度として吸引力が乏しく(メリットの不明確さ)、しかも制度的な支援は出来ないため、広域連合制度の大義名分を強調する以外に説得する材料がない。広域連合の活用には、制度上のインセンティヴが必要であり、例えば、交付税措置を広域連合に対してすることを県は自治省へ要請をした。側面的な支援としては、各種の財政支援制度の利用以外に、広域連合に適した事務内容の例示(リサイクル、介護保険、人材プール)ぐらいである。 (4)大野広域連合の成立過程(その2):町村の対応 大野地域の自治体は、県に対してまた構成自治体間でどのような調整をおこない、さらに地域住民に対して新制度の活用をどのような視点から遂行したのかを以下に探ってみよう。 (a)連合の事務内容と運営 大野地域に「文化センター」の建設が持ち上がったものの、事業主体になるには自治省の指導・方針(一部事務組合再編成=複合事務組合化)があるために、一部事務組合の新設によっては文化センターの設営はできないことになる。一方、大野地域内に2か所ある老朽化した「清掃センターの統合と建て直し」の計画が進捗し、複合化するには既存の清掃事務組合を解散する必要があるとされていた(本当に解散が必要かは解釈の分かれるところであるが)。しかし、解散して広域連合に組み入れられればすでに合意された清掃センターの建て替えを巡って議論・反対が再燃するおそれがあったことから、文化センター設立のために複合事務組合か広域連合かの二者択一となり、最終的な選択肢として広域連合が採用されたのである。したがって、広域連合の目的の一つである「権限移譲の受け皿」とは別のところで広域連合が発足したことになる。ただ、広域圏協議会が法的権限を得ることにより広域連合となり、広域圏の地方政府化することになったことの意味は、当事者
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